現役東大生理Ⅲブログ

東大生TMNブログ~大学生活編Vol.10~ 2011年3月

大学生活編|現役東大生理Ⅲブログ

  大学生活、ということですが、3月は学校がありません、し、そもそも東京にいません。長期休みはおおかた帰省して、仙台北西部の実家で過ごすことにしているためです。今回の春休みについても通例どおりで、2月末には帰省し、その上で3/11から2週間、山形の自動車学校で合宿免許に参加する予定でした。

そこで地震です。14:46。昼過ぎに自動車学校に到着し、視力検査等の手続きを終え、ようやく一時間目の学科が終わろうとしているときでした。突然教室中に機械音が鳴り響き、それが緊急地震速報であると理解した時にはもう揺れが始まっていました。携帯の画面に「宮城沖で地震発生」と現れていました。教室の電灯が落ちました。

そんな宮城県民の一人としてそこそこの地震耐性を備えているつもりの僕においても、とにかく「長い」と感じました。もちろん地震そのものの揺れも相当なものでしたが、その「強さ」を追いやる「長さ」。1分も2分も揺れが続いている気がしました。そして、今度こそ宮城県沖地震が発生したかもしれないと思いました。これまで大きめの地震が起こるたび、今度こそ?との思いを裏切られ続けてきましたが、今回の「長さ」は本物かもしれない、とすると山形でこの揺れ、ならば宮城では?不安が増していきます。とにかく実家の家族にメールを送ると、「家のものは壊れてないけど、全部落ちた それに電気止まった」「家の中はめちゃくちゃだけどみんな無事なので心配しないでください」「水とガスが生きてるのが救い」などの返信があり、ひとまず安心すると同時に、意外とたいした地震でもなかったのかもしれないという考えも浮かんできました。

しかし、ワンセグでニュースを見るとその考えも吹き飛びました。見慣れない二重枠の中に押し込められたニュース画面。右下の日本列島は大津波警報のため右半分が真っ赤になっていました。テロップに流れる壊滅的な津波被害。聞きなれない、「未曾有」「国内史上最大」との言葉が繰り返されます。そしてテレビと現実の橋渡しをするような余震。実家はともかくとして、この地震は仙台、宮城そして東北の、これまで僕が経験したことのないスケールでの危機に違いないと確信しました。合宿免許には友人と二人で参加していたのですが、これは合宿をキャンセルして仙台に戻ろうということで意見が一致しました。

入校初日で勝手のわからない校舎の中に大勢の免許取得者とすし詰めになり、日が暮れるにつれて狭くなる視界に不安も増して行きます。自動車学校は教習を強行する方針でしたが、18時ごろ完全に真っ暗になった時点でそれも断念、全員帰宅ということになりました。宿舎まではバス移動でしたが、小雪のちらつく暗闇を移動する車内のラジオからは次々と改悪される被害状況に気は沈む一方でした。宿舎では蝋燭の火で夕飯を頂き、20時には就寝しました。連絡手段・情報源を失うのが恐ろしく、携帯の充電が気になって仕方ありませんでした。

翌朝は早朝から自動車学校に登校し、職員の方にキャンセルし帰宅する旨を伝えました。この日から自家発電機を導入した自動車学校は強行ムード一色で、新幹線、鉄道、高速道路と、思いつく限りの交通手段が大打撃を受けていたこともあり、「本当にいいの?」とも言われましたが、とても教習を受けられるような気分でもありませんし、何より昨晩で連絡の途絶えた家族の安否が心配です。こちらの意を通します。手続き等の確認が済むと、昼過ぎには宿舎に戻りました。

食料品の買い出しに出かけたスーパーでは、レジが使えずお客一人に店員一人が対応、購入品を逐一レシート代わりのメモに書き留める形をとっていたため、それを待つ数人の列ができていました。また、24時間営業が当たり前であったはずのコンビニは軒並み閉店していました。しかしながら、この日の夕方には電気も復旧し、(僕の生活した範囲の)山形県はほぼ都市機能を回復した印象を受けました。風呂に入ることまでできたのです。心配していた仙台までの交通の足ですが、買い出しの途中に立ち寄った駅の高速バス乗り場で翌日の仙台駅前行が運行することを発見し、どうにか実家に戻れる見込みが立ちました。

翌日は朝9時発のバスに乗り、11時には仙台駅に着きました。西の山形から東の仙台へ向け国道48号線を辿る道中、奥羽山脈を越え宮城県に入ったあたりから、震災の実際的な被害が見え始めてきました。あちこちで屋根瓦がぼろぼろに崩れています。道路は地割れを起こし、急な段差に乗り上げたバスが気持ち悪く揺れます。一番こたえたのはスーパーに数百人単位の人が殺到している光景で、数人の列とは話が違う、これはまずい、やっぱり帰ってきて良かったと実感しました。仙台駅周辺部でも行列があちこちで見られ、百貨店の壁ははがれおち、歩道のタイルはぐじゃぐじゃになっていました。慣れ親しんだ仙台駅も構内全面立入禁止となっており、後日ニュースで目にするような酷い有様が連想されました。ただ、ここでも幸運なことに、自宅近辺までのバスはダイヤが不確定ながらも動いており、結局正午前には自宅に到着、1日半ぶりに家族の無事も再確認することができ、ひとまず安心しました。

自宅は、思っていたよりも悪い状況にありました。連絡が途絶えていた間に電気は復旧したものの、水道とガスは供給が止まり、テレビ(ケーブル)も見られずインターネットも電話もつながらないという有様でした。自宅近くの、僕の通った小学校は給水場所になり、震災後数日は水を求める近隣地域の人々の車で道路が埋め尽くされ、給水にも数時間の待ち時間を必要としました。食料品を扱う店で開店している所には、それがスーパーであれコンビニであれドラッグストアであれ長い列ができていました。列、というと醜いのはガソリンスタンドで、スタンド、それも営業すらしていないスタンドの先数キロにわたり100台を悠に越える列ができていました。

さて、時系列を追うよりはむしろ、現状報告(3/22現在)をしたいと思います。ガスを除いてライフラインは全て復旧しました。ガソリンスタンドの行列は震災直後と変わりなく、先行きが見えません。スタンドにはいまだに長い列が続いています。公共交通機関については、バスはほぼ通常通り、地下鉄は区間を限定して運航しているのですが、それを補う無料送迎バスに長蛇の列ができている状態です。食料品については、商品の搬入が少しずつ始まってきたのか、時間帯を選べばスーパーの行列も避けられるようになり、またトラックで運んできた作物を空き地で直売する農家の方々もぽつぽつと出てきたため、食材を選ばなければ食べるのに困ることはありません。ただ、パン、卵、牛乳、納豆、豆腐などに関してはどこでも品薄で、手に入りづらい状況が続いています。ただ、電話が開通するに従って知り合いの人たちの安否も明らかになり、皆無事だということがわかったのが、まずは何よりです。

ライフラインが復旧していく喜びは非日常的な、新鮮なものでした。特に水道。ゴーという音が聞こえ、もしやと蛇口を開いてみると、ちょろちょろと水が出たとき。数日後、突然水が出なくなり、不安に駆られた数時間後、これまでとは桁違いの強さの水流が出てくるようになったとき。こうした時に味わった感情はいままでにないものでした。トイレ、炊事、洗面、こういった場面で普段どれほど多量の水を使用していたか、その水量が制限されたときにどれほど不便を感じるかを実感しました。正直、飲料水にはあまり問題を感じませんでした。とにもかくにも生活用水なのです。

ちょっとしためぐり合わせでボランティアにも携わることになりました。自宅から徒歩圏内のパン屋さんで、400人限定・390円の食パン1斤を求めて列に並んでいた時のことです。パン屋さんの隣の、もともと大きめの書店だった建物に大きなトラックが停まり、トラックから建物内へ、次々と物(アメリカのキリスト教団体による救援物資で、元書店を集積地とし、各地の牧師さんを介して被災地に配布されるそうです)が運び込まれていったのです。その手伝いをアナウンスで募集され、はじめは躊躇していたのですが、同年代の人たちがすたすたとパン屋の列から元書店へと向かうのをみて、さすがに、と意を決し、参加しました。作業をしていると、だんだん悲しい気分になってきました。ぼくが書店として記憶していて、本棚が並んでいた建物は、今では整然すぎるくらい整然と並べられた、無機質に真っ白な(キリスト教に関係?)救援物資で満たされています。そもそもどうして、住宅地の真中で、こんな、テレビ画面の中でしか見なかったような場面が繰り返されなくてはならないのか。周りで懸命に荷物を運んでいる人たちが、皆、被災者ではなく作業している自分を見ているかのように、支援にではなく支援している自分に満足しているように見えてきて、そんなふうに意地悪く感じてしまう自分も嫌になってきます。そして一つだけ確信できたのは、こうなってしまって初めて、自分がどれほど自分の育ったこの街を好いているのか、ということです。そうして今でも漠然として不確かなことは、「いかに震災と関わるか」ということです。それが人によって違うものであろうことはわかりま す。あくまで自分がどう関われるのかをはっきりさせたくなったのです。

いろいろと考えてみました。考えていくにつれて、むしろ自分の置かれている立場の微妙さに思い至り、考えがこんがらがってきました。はたして僕は本当に被災者と言えるのか、ということです。ライフラインが正常に機能せず、物流も滞った生活は不便です。しかし、津波によって街自体が無くなってしまった、被害の全容が明らかになるかもわからない沿岸部の被災地に比べれば、津波と無縁の、家具ひとつ壊れていない僕の家など、とても被災者面をすることはできません。しかし一方で、ニュースでも多く目にする東京に目を向けてみれば、確かにそこには直接の地震被害に加え、計画停電やそれに伴う混乱による不便さがあります。ガソリンや食料品の品薄状態も続いているようです。ただ、これまた失礼を承知で言うのですが、その物不足は買占めによる、自分の首を自分で締めている類のものに感じられます。計画停電に関しても、正直、大変失礼な表現ですが、尻拭い、という印象を受けます。そしてこの東京に暮らす都民に比べれば、僕も被災者面をしたい気がしてきます。しかし、西日本に視点を置き直してみれば、東京も立派な被災地です。つまるところ、僕がどうしようもなく感じたのは、全部が相対的であるということなのです。そして考えをよりこんがらがらせるのが、僕自身が普段は東京の大学に通う、好き勝手な言葉を浴びせてしまった都民であるということで、半分は宮城県民でも半分は都民、揺れ続ける振り子の中で揺れ続ける振り子のような曖昧な立場にいるという事実なのです。

「未曾有」で「国内史上最大」の震災にどう関わるべきか、どうすれば自分で納得がいくのかは、今でも答えがでません。ただ、その出発地点として、まず振り子を固定する、自分の置かれた立場をはっきりさせる努力を続けたいと思います。